作文は勉強するもの?

作文を教え始めた頃から、

なんとなく疑問に思い続けていたことがあります。

答えが見つからないまま、

何年も経ち、

つい最近、目が覚めたときに

そうだ! ひらめき電球

と、解決しました。

それは、

作文は勉強として、半強制的に教えていいものかどうか

という問題です。

文章を書く

ということには、

どんな場合でも

自分の価値観の主張

が入り込んでいます。

それを、例えば、授業だからという理由で、

先生や保護者が

「さあ、書きなさい。」

と、言って、

気分が乗らなくても半強制的に書かされる

というようなことです。

価値観の主張には、自主性という姿勢が重要ですが、

それが、根本から揺るがされている状態で「書く」

ということへの疑問です。

戦後の民主教育は、自主性を重んじてきていますが、

子どもの自由意志にまかせた主体性を尊重する教育

というのは、

アメリカで失敗が明らかになっています。

教育を行うのに必要な影響力には、

1.教える力(ティーチング)

2.指導力(コーチング)

3.影響力(エンパワリング)

の3段階がありますが、

まだ基礎的な学力がついていない段階での教え方は

ティーチング

が基本です。

1から10までを、手取り、足取り教えてもらう一方、

結果が出せるまでは、我慢して厳しい訓練に耐える姿勢も必要です。

そうしてレベルが上がり、自信がついて、

自ら成長を求めて、1を聞いて10を知るようになれば、

コーチングという教え方が有効です。

勉強には訓練が必要なので、

ティーチングを受けて何かをやり遂げていない状態で、

コーチングを受けても学習効果は低くならざるを得ません。

しかし、私の作文指導は、コーチングが基本です。

それは、作文を書くという行為は、

○×、点数化という純粋に客観的な評価が難しいだけに、

自主性(自分から書こうとする姿勢)が、高度に必要とされるからです。

一方で、ティーチング的な要素も、教材にはしっかり入っています。

だから、「勉強として」取り組んでも、作文は上手になります。

で、結論は

「勉強として」しか取り組めないレベルの生徒さんであっても、

作文に「勉強として取り組む」ことには、

とても意味があるということです。

それは、

保護者の方がお子さんの個性を尊重している

という家庭環境が前提ですが、

勉強として取り組んでいる場合であっても

数十回も、きちんと考えながら作文を書けば、

やがて、

自分の世界を言葉で築くことの楽しさ、おもしろさ

に、目覚めてくるからです。

おそらくそうしたことを学ぶチャンスというのは、

意外なほどに少なくて、

作文を、小学生のときにお稽古や勉強として習慣づける

ということは、

生涯にわたって、

自分の世界を表現するという行動パターン

という記憶となって、

その子の人生を支え続けるであろう

ということです。

今だからこそ言えるのですが、

どんな芸術系のお稽古よりも

どんなスポーツ系のお稽古よりも

どんな中学受験よりも(笑)

作文を勉強させましょう。べーっだ!

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