なぜ日本語の文章はわかりにくいのか

  二項対立形式で書かれていることの他にも、論説文をわかりにくくしている原因があります。それは、意見が婉曲に表現されている点です。つまり、自分が主張したいことであるにも関わらず、表現がソフトになるよう、もって回った書き方がされているのです。 「和をもって尊しとなす」と言われるように、日本には他人と対立することを好まない文化的な伝統があります。それは、農耕を中心としてコミュニティーが形成されていたため、農作業などを協力してやる上でも、集団の中で自己主張をしないで、仲良くしていくのを第一に考えてきたためです。狩猟を中心とした移動生活をし、厳しい自然環境の中で形成されてきた欧米の文化とは、精神構造が違うということはよく言われます。 英語では “I think so.”(私はそう思います。)などのように、自分の意見を書く時は、必ず文法的に“I”という主語が入ります。しかし、注意して読むとわかりますが、日本語の文章では筆者が自分の意見を書く時に、「私は」という主語を書くことはかなり少ないと思います。文章を書いている本人以外に、意見を主張する人がいるはず。この「主語」がないために、それが引用されている意見であるのか、一般的な意見であるのかなど、本当は誰の意見であるのか、意見の主体がわかりにくくなるのです。すると、二項対立の形式として、反対意見が引用されているのに、その反対意見のほうが筆者の意見だという風に勘違いしてしまうことも珍しくないのです。 それはあながち筆者自身の責任ではありません。日本語には「誰が」という主体がわかっている時には、主語を省略する暗黙の文法ルールがあるために、そういう表現になってしまうのです。ちなみに「主語を省略する」文法ルールは、一般的に作文で教えられることはありません。そのため、小学生は「私は」「ぼくは」などの主語がたくさん入った文章を書くことが目立ちます。しかし、それは明らかに不自然な文章なので、直さなくてはいけません。ルールを教えられていないので、どうして違っているのかがわからない。その結果、見よう見まねで理解しなくてはいけないのが、国語教育でよく指摘される問題点です。作文に苦手意識を持つ子が多いのは、そうした教育方法にも原因があります。 また、他にも、「文末に婉曲表現を使う」―――これもまた「暗黙」のルールがあります。つまり、意見が書かれている文章は、主語と文末で二重に主張が弱められているのです。 婉曲的な文末表現とは「○○ではないでしょうか」の例を引くまでもなく、同意を求めてみたり、「○○ということが言える」のように自分の意見であるにも関わらず、あたかも一般論で表現したりする方法です。この他にもたくさんのバリエーションがありますが、これは慣れてくると、筆者の意見を見分けるために逆に役に立つものです。 もちろん筆者の意見であれば、本来なら強調された文末表現であるほうが自然で分かりやすいと言えます。文末の場合、全部が筆者の意見を表わすわけではありません。文末には「~なのだ」「~である」「~なのである」という断定的な表現はよく使われます。しかし、それ以上に文末で意見を強める表現方法はあまり使われることがありません。 面白いのは、「○○なのではないかと言えないでしょうか。」のように、二重三重に婉曲に表現されている意見ほど、最も筆者が主張したい意見であるということです。それほど、日本人はストレートに自己主張することを、美意識として嫌っているのです。ストレートな自己主張は受け入れられにくい現実がわかっているので、慎重に表現せざるを得ないとも言えます。 けれども設問などで、「筆者の意見として正しいものは何か」などと問われた場合。このルールがわかっていないと、大切な結論は最後の段落に書いてあると考えて、文章のまとめの意見だけを読んでしまうことも多々あります。しかし、論説文では、筆者の意見は始めから終わりへと展開されていくので、始めや途中の文章に書かれている意見もしっかり読まなくてはいけないのです。 議論したり、「対立」したりすることは良くないとする価値観がベースにあるため、論説文の問題はまるで、なぞなぞのようですらあります。しかし、こうした表現方法が、文章の書き方のいわばルールだとわかれば、論説文が楽に読めるだけではなく、自分が文章を書く時にも応用することができます。筆者の意見を批判的に読むことができない。また、うのみにしてしまったり、感化され過ぎて崇拝者になってしまったりといったリスクも避けることができます。   自由が丘の塾 直井メソッド国語専門塾]]>

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