国語の論理は因果関係の検証である

  「論理的」という言葉を聞くと、何か100パーセント間違うことのない完全な思考過程を思い浮かべないでしょうか。算数の計算は、始めの値と得られる結果が必ず一致します。たとえば1+1=は常に2です。100回やって、100回とも同じ結果が導かれる思考過程です。もし、問題を解いている人が違う結果になったとすれば、その人の思考過程や計算結果が違っていたと考えることができます。 「論理的」な文章という言い方があります。「論理的」な考え方もあります。けれども文章の場合は、初めに「ある(「何らかの状態」「Aという状態」ぐらいの方がわかりやすいかもしれません)状態」があっても、その結果は一つではありません。 「雨が降ってきた」という状態があります。その結果は、「傘をさす」ことかもしれないし、「運動会が中止になる」ということかもしれません。また、「道路がぬれる」ことかもしれないし、「蛙が鳴く」ことかもしれません。一つの原因に対する結果は、無制限にあると言っても過言ではありません。 これと同じことが、一見「論理的」である文章にもあてはまります。「二酸化炭素の増加が、地球温暖化の原因である。」という文章。これは「二酸化炭素」や「地球温暖化」という科学の専門的な用語。そして、日常生活ではあまり使わない「増加」なる抽象的な言葉に加え、語尾は恣意性を感じさせない「である」と言い切った表現になっています。 私たちは、この文章にある種の間違いのなさと信頼性を感じます。これは、「正しい」ことであるという感覚が生じます。それは、単にこの文章を初めて読んでそう思ったとだけではなく、新聞やテレビなどで繰り返し、似たような話を聞いたことがあるからかもしれません。また、学校の教科書に載っているからかもしれません。「みんながそう言っているから正しい」―――多数決による正しさの認識なのです。 けれども原因と結果をひっくり返すと、「地球温暖化」の原因は「二酸化炭素の増加」だけではないかもしれません。それは「蛙が鳴く」ことの原因が、「雨が降ってきた」ことだけではないのと同じです。もしかしたら、蛙が鳴いたのは、ただその蛙が鳴きたかったからかもしれません。「運動会が中止になる」原因は、「雨が降ってきた」からだけでなく、生徒の健康が心配だと学校の先生が判断したからかもしれません。 ある原因に対して、無制限の結果があるだけではないのです。ある結果に対しても、本当の意味では原因を一つに特定することができない―――これが、文章の論理の性格なのです。   自由が丘の塾 直井メソッド国語専門塾]]>

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