作文は「勉強」としてでも取り組むべきか
という疑問の他に
もう一つ、長年抱えていたテーマとして
国語の受験テクニックは、
合格ということ以外に、やる意義があるのか
という従来型教育への再評価の問題がありました。
国語のテスト
というのは、
あくまで採点のしやすさを基準にできているものです。
国際的な読解力の評価を世界標準
とすると、
日本で読解力とされているものは、
かなり、かけ離れています。
だから、
OECDのテストの点数が低いのは問題だ
世界標準の読解力を身につけるべきだ
という問題提起は、もっともなことです。
世界標準の読解力を身につけることは、
手間隙のかかることであり、教育予算も必要です。
けれども、それが生産性につながっていることは、
フィンランドで検証されていると言っても過言ではありません。
日本は一見、豊かな国のようですが、
国民一人当たりの生産性は高くないですし、
それが、構造改革による自由化の進展によって、
格差として表面化していることは、紛れも無い事実です。
けれども、そもそも小論文入試を行ったとしても
本物の小論文を書けるだけの国語力を養成できなければ、
小論文入試自体が形骸化してしまいます。
本格的な小論文入試を行っている大学が、
内実では英語と数学で合否が決まっているという話があるのは、
小論文を書ける実力がある受験生があまりにも少ないために
結局、差がつかないという現実を予想させます。
これが現実なら、むしろ、
日本的な意味での読解力を逆手にとって
思考力を育てる方が現実的ではないか。
というのが、
私が読解指導について考えているコンセプトです。
つまり、次善の策ということです。
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